1980年代後半の栗田貫一さんの宣伝材料用写真0328001572_comm
ものまねタレントとして息の長い活動をしている栗田貫一さん25001177_comm

1 :かばほ~るφ ★@\(^o^)/:2016/03/28(月) 12:50:50.69 ID:CAP_USER*.net

これはものまねタレントとして売り出した1980年代に使っていた宣材写真です。実はデビュー前、ショーパブで歌っていた時にジャニーズ事務所に誘われたことがありますが、この写真を見たら納得しませんか?(笑)

ものまねを人前で始めたのは、22歳で六本木のスナックで働き始めてからです。あまりにもお客さんが入らないので、勝手に俺がものまねのステージを始めたらすごい人気が出てね。それでスナックをショーパブ風にしたら、それこそ、俺を見るために来るお客さんで、毎日店がいっぱいになったんです。

それがきっかけでデビューしましたが、当初は無名だから、いろんな場所に歌いに行っても辛かったよね。たとえば敬老会に呼ばれても、誰も俺のことを知らないから、一生懸命に有名な歌手の曲を歌っても全然ウケない。

20分の持ち時間が3日間くらいに感じたものです。また、歌手の前座として、スナックを一晩に5軒回ることもありましたが、行くとお客さんが3人なんてこともありましたね。

80年代後半に入り、ものまねの歌番組ができて人気が出たけど、最初は俺たちものまねタレントは盛り上げ役で、普通の歌手の人が優勝する形でね。

それがだんだん変わってきて、ある時「ものまね王座決定戦」のプロデューサーの木村忠寛さんが、俺と清水アキラ、ビジーフォーとコロッケの4組を「ものまね四天王」と命名してくれたので、四天王の一人として注目されるようになりました。

当時は90年代前半でバブル後半、しかもものまねブーム真っ盛りなので、番組のお金のかけ方がはんぱなかった。「ものまね王座決定戦」は、照明だけで3億円と言われ、12台のカメラが俺たちを常に撮影しているから、長い撮影時間でもみんな一瞬たりとも気が抜けない。

ちょっとでも油断すると、プロデューサーから怒鳴られる緊張感の中、夜中の3時や4時まで撮影して、優勝者は目の前で100万円単位で賞金が渡される、そういう時代でした。

それから約10年、仕事はフル回転。毎月、地方も含めたイベントやコンサートがパンパンに入っていて本当に忙しかった。でも今考えると、当時所属していた事務所は相当潤っただろうに、当の俺はなぜかちっとも儲からなかったというのが悔しいです(笑)。

忙しい四天王が同じ場に揃うことはなかなかなかったけど、歌番組で誰かと一緒になると「こいつよりウケたい。絶対にうまく歌ってやる」と思ったので、結果的にものまねの実力を磨けたと思います。今もものまねタレントとして活動しているのは、やはりあの四天王としてがんばった時代があったからこそ。

でも時々考えます。あの時、ジャニーズ事務所に入っていたら、俺は今頃どうなっていたんだろうってね(笑)。

くりた・かんいち ものまねタレント。声優。1958年東京生まれ。84年放送の「第16回オールスターものまね王座決定戦」でプロデビュー。やがて清水アキラ、コロッケ、ビジーフォー(グッチ裕三・モト冬樹)と並び「ものまね四天王」と称される。山田康雄さんの後を継いで『ルパン三世』のルパン役の声優も務める。

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